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いつもと違う風景、『計算機と自然、計算機の自然』を見に日本科学未来館をソロで訪ねたよ

どこかに出かけたい。
せっかくの休み、いつも見る風景ばかりじゃなくって全然違うなにかがみたい!
この記事はもう少し感染者が少なかった時に、一人旅で出かけたときのお話です。

落合陽一さんが好きなので、日本科学未来館の落合陽一さんの展示『計算機と自然、計算機の自然』がどうしても見たいと思っていて、ついでにでっかい書店に行って新書の「半歩先を読む思考法」を買ったらいい感じの休日が過ごせそう。

日本科学未来館にいく。

チケットは日本科学未来館のホームページの事前予約のみの受付で、来館したら体温測定、アルコール消毒をしてするっと入館。チケットは入館+3Dドームシアターの入場券となっていて、13:30からの上映に間に合わせてお昼ごはんをたべます。

科学のちからで低糖質なチキンごはん。おいしかった。

ぼくが見たのは「バースデイ ~宇宙とわたしをつなぐもの~」という上映で、地球の、月の、太陽の、銀河の、そして宇宙のはじまりの日に迫る30分の短編です。
地球の上でうまく生きていけねえぜ、という気持ちで生きているので話が銀河レベル、銀河数個の兆個の宇宙レベル、そしてその謎に挑んでいくひとの生き様を見て自分のちっぽけさがよくわかります。
かつて宇宙は素粒子だけに満たされていて、素粒子の偏りが重力を生み、数億年という単位で互いを引き合い大きくなっていった星がやがて銀河になっていった――。スケールがばかでかい。素粒子っていったいなんなんだ。

3Dの上映なので、観賞中数千の銀河が飛び出して目にはいってくる。たぶん銀河が目に入る体験ってなかなかない。

星が互いに引き合って大きな星に、銀河になっていく映像が壮大でうつくしかった。
宇宙が素粒子に満たされていてそれが星になっていった、よりも神が「光あれ」といって世界を作ったという説明のほうがよほどわかりやすい。素粒子、すごすぎる。

ドームシアターを見終わったあとはとにかく自由に展示を見て回ります。

5階常設展示、『“ちり”も積もれば世界をかえる』

スケールがでかすぎる宇宙のなりたちをこの目で見た足で、「地球の材料」「小惑星の材料」「炭素から出る電波」を調べて宇宙の謎を解き明かしていく科学者たちの展示をみます。

地球深部探査船「ちきゅう」。全長210m,57000tのくそでか船

船から突き出てる骨格が特徴的なこの船、10kmの長さのドリルを地球に突き刺して地球の材料を調べています。
海底10km下、生態のまったくわからない微生物がいることがわかったり、東日本大震災を引き起こしたとされる断層を採取することで、断層の粘土で出来ている部分が滑り地震を引き起こしたことがわかったり。

この船を動かしている船員さんたちのおかげで地球のまだ知られていないことがわかるのもすごすぎるし、純粋な好奇心だけで海底10km下の地面を顕微鏡で眺めて微生物の数を数えている研究者が変態すぎてリスペクトが止まらなかった。

彼らを動かしているのは、子供心に抱いた「地球、いったいなにでできてるんだ」という好奇心。
分からないことを解き明かしていく科学のいまたどり着いている答えと、解明されていない謎をうんうんとかんがえるのがすごくたのしい。普段全く使わない、あきらめてしまっている考え方を思い出せた、気がする。

小惑星から”ちり”を持ち帰りたいひとたち

地球から飛ばした探査機、はやぶさ2の50年単位のミッションそれは、地球の軌道上を高速で公転する小惑星への着陸。サンプルの採取。
そんなのできるわけない!ってぼくなんかはおもっちゃいます。

ターゲットマーカを小惑星に打ち込んで、それを頼りに着陸します。

でも科学の力で、わくわくしながら挑んでいる研究者がいる。
途中であっけなくロストしちゃうかもしれない、軌道から外れて燃料が足りなくなっちゃうかもしれない、着陸にあっけなく失敗しちゃうかもしれない、採取できたサンプルが地球にたどり着かないかもしれない、技術革新が起きてはやぶさがやろうとしていることがあっさり達成されてしまうかもしれない。
それでも、人生をかけてはやぶさのミッションに挑むひとたちがわくわくしながら日々を生きているのが素敵すぎる。そんな人たちをしれたのがうれしかった。

3階、計算機と自然、計算機の自然

自然の中のロボットは自然に含まれないのでしょうか。
自然を映した鏡の中の風景は自然ではないのでしょうか。

この展示がずっとみたかった!もう写真からかっこいいですよね。
感じたことのない着想、発想から作られた展示だということが一目でわかる斬新さです。

落合陽一さんの著書「デジタルネイチャー」で示唆されている、計算機=コンピューターがやがて描き出すかもしれない計算機にとっての自然とぼくたちが自然と感じるものの境界を探る展示、だとぼくは思います。

19世紀、人類ははじめて「映像」を通してコミュケーションを取る技術を開発しました。映写機の登場です。
白黒のテープを回して投射していたアナログから、映像に関する技術は進化し続け現在ではVR、AR技術に代表される三次元的な映像まで登場しています。

私たちは鏡の中の風景を『鏡の中の風景』として認識することができます。同じようにAR、VRで体験する映像はこれらの言葉通り、『拡張された現実』もしくは『仮想的な現実』として区別して認識することができます。

ですが、これらが再現する『現実』が私たちが区別して認識できないほどに解像度が上がる世界が訪れたとき、私たちはどちらの世界を現実、自然として認識するのでしょうか。私たちの視覚自体、網膜に映し出された映像でしかないのです。

コンピューターが描き出す自然が人間的な複雑な情緒を完全に排除していたとき、それを自然と受け入れることは難しいはずです。いかにもコンピューターが描き出しそうだ、と拒絶反応のような違和感を感じるかもしれません。
しかしそれが、「詫び・寂び」のようなきわめて複雑な情緒をも再現した自然だったときはどうでしょうか。

どうなっちゃうんでしょうね!
ぼくとの計算機=コンピューターとの関係性はiPhoneでTwitterして、kindleで本が読めて、家でPCゲームをするぐらい・・・ですが、そんな関係性を懐かしむ日がくるかもしれないなんて考えるとわくわくします。

手で触れて、耳で聞いて(初音ミクちゃんが音楽と機械、機械と人の関係性についてしゃべってたりします)、未来に思いを馳せる体験、すごくよかった。


そんなかんじ。
いまは感染者が増えすぎているのであと四週間ぐらいはおとなしく過ごさなくちゃいけないですね。
また視野がぐっと広がるようなお出かけができるのがたのしみです。

デジタルネイチャー、とても刺激的で面白い本なのでぜひよんでみてください。


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